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大型マンションに替わった老舗スーパー跡


 マンションのエントランスの自動ドアが開いて、バギーを押す若い女性が出てきた。ランドセルを背負った小学生が、ドアの向こうに消える。ドアは開閉を繰り返して、住人が出入りする。エントランスの前は車の進入路を残して緑地帯となり、植えたばかりの木々が初々しい若葉をつける。基礎工事から2年余り、竣工した総戸数210戸の大型マンションの入居がこの春から始まった。
 マンションとは道をはさんで真向いに平屋建ての食品スーパーがある。その屋上駐車場から私はマンションを眺めていた。食品スーパーができたのは8年ほど前である。私鉄駅から2分ほどという好立地にあり、何十年と駐車場であった場所に出現した耳慣れない名前のスーパーは規模は小さかったが、商品の品ぞろえと低価格が評判を呼んで近辺の客を呼びこんだ。
 マンションが建つ場所には大型スーパーがあった。このスーパーがオープンしたのは、たしか1970年より少し前であり、この地域では最初のスーパーである。ユニードと今では消えた名前の店は、私が10代半ばで初めて見るスーパーであり、地域の人々にとってもそうであり、当時の日本人がそうであったように購買・消費行動をドラスチックに変える体験との出会いであった。
 ユニードは80年代になってダイエーに吸収合併されて名前を変えた。店も改築された。お買い物バスが何台も出て、この頃が一番繁盛していただろう。陰りが見えてきたのは、世紀が変わる頃からである。地域に他の大型スーパーやデスカウント店、ドラッグストア、ホームセンターなどがいくつもできた。ダイエーはイオンに吸収されて名前もまた変わったが、この頃には入居していた専門店はほとんど消えていた。そしてこの食品スーパーの出現である。いつもにぎわう新参の小さな店とは対照的に、古参の店の広大な食品フロアは土日も閑古鳥が鳴いた。
 4年ほど前、老舗スーパーの解体工事を同じ屋上の駐車場から眺めながら、私は感傷的になっていた。ほぼ半世紀、栄枯盛衰の軌跡を絵に描くようにして消える商業施設、たしかにこの店は地域の時代を画した華々しい存在であった。だが誰にも惜しまれず、誰も立ちあわず、こっそりと消えていく。この店での買い物、売り場のシーンや店員の表情も断片的ながら数多く思い出される。私だけではなく、地域に長く住む人なら誰もがそんな思い出を持つだろう。高く覆われたシートの向こうでは、重機の音、コンクリートを砕く音がする。
 少なくとも私は店の消滅の瞬間に立ち会っていたのだ。長らく親しんだ店を古い知人のように感じていたのか。いや知人というより自分をそこに投影していたのだ。この半世紀は私の10代から60代の時間である。私の青春・中年・老年と重なり同じ軌跡をしるす歳月だ。この店が繁栄したほどの中年を私は欠いており、この店が使命を果たし終えたといえるほどの達成感や充実感は私にはないが、結末の寂しさには既視感があった。人生にサイクルがあっていずれ終点があり、それを意識する地点に来た私は、半世紀を伴走した存在をひそかに見送った。
 解体されて更地になって約2年、ユンボが入り基礎工事が始まり、足場が組まれ建物が徐々に形を現わし、入居者募集が開始される。その折々をこの屋上から眺めた。人が住むマンションはもうすでにして始めからここに存在していたかのようにあった。前のスーパーは私の記憶の中で一段と遠ざかった。それは日々薄れていくだろう。歴史にさえならず、消え去ってしまうのだろう。
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古都華を食べる


 家の近くの休耕田にビニールハウスが去年の秋に5棟出現した。何を作るのかと思っていたら、イチゴを栽培するという。4月にのぼりが立った。ある日、たまたま妻がその前を車で通ったとき、空地に車が多数止まっていた。イチゴ狩りが行われていたのだ。幸いに空きがあって、妻も初のイチゴ狩りを体験した。
 持ち帰ったイチゴは古都華であった。強い香りがして、つやのある鮮やかな紅色、まさに摘んだばかりというみずみずしさに目を見張った。スーパーで購入するものとは一見してまったく異なる。思わずつばを飲み込む。一個つまんで口に含む。濃厚にして芳醇な甘酸っぱさ、全身の細胞が震える。噛み応えがありながら熟れきって中まで赤い。
 ざるにいっぱいのイチゴは1キログラムもあって、これほどの量を食べるのも初めてである。摘んだ直後が一番おいしいと言われて残すことなく味わった。古都華は他のイチゴが300~400円で販売されているとき1000円の値段がつく高級種である。3400円したらしいが、十分満足できた。
 ビニールハウスは床にシートが敷かれて、棚で栽培されたイチゴは屈むことなく収穫できる。つるが垂れて先端に実がつく。温度や日照、栄養は完全に人工的にコントロールされているのだろう。施設や管理に費やすエネルギーは膨大なものにちがいない。60年前、我が家も家庭菜園でイチゴを露地栽培していたことがある。母がせっせと藁を敷いて世話を焼いていたが、穫れるのはわずかだった。しかし貴重なその一個の味は特別な記憶として残っている。あの時代からなんと遠くに来たことか。古都華を贅沢に食べながら思う。

古都華



「近くにいるということは、心の近くにいること」


 NHKの番組で「ひとりだけどひとりじゃない」を見た。「鹿児島ゆくさの会」という身寄りのない人の互助会の活動を紹介する。6年前、数人の人たちによって結成され、現在は130人もの会員がいる。週一回、ミーティングをもち会員の懇親を深め活動方針を協議することだけが決まっていて、自由に会員宅を相互に訪ねたり、いろいろなことで助け合っている。誕生会や花火会や旅行も企画する。活動費は月300円の会費である。
 創設メンバーで会の中心になっている男性、深水(ふかみず)さんは、仕事も家庭も失って鹿児島に流れつき路上生活を送っているとき、同じホームレスからコンビニの廃棄パンを分け与えられて感激し、助け合うことを考えたという。会の結成を働きかけ現在もサポートしているNPOがある。「やどかりサポート鹿児島」で、ホームレスが部屋を借りるとき連帯保証人となっていたが、住む場所が確保されたあと孤立しひきこもる人が多くて、制度や支援だけでは解決できないことを痛感していた。
 「2度自殺しようとしたことがある。今、ここでおしゃべりできているのが不思議なくらい」「傷害罪で一度逮捕されたことがある。ここにいる人間は優しい」「遠くにお墓があるが、一緒に行ってくれる」。こんなことを素直に語れることからも、この会が会員の居場所になっていると思える。すべての人がカメラに顔を晒しているわけではなく、モザイクのかかった人もいる。ある40代後半の女性は母の介護を20年間したあと7年間ひきこもっていた。家賃が払えなくなって「やどかりサポート」に助けを求め、「ゆくさの会」とのつながりができた。マイナカード申請で外出する際は会員が同行した。また頼まれて買い物をした。徐徐に「社会復帰」の途につく。
 けれどもトラブルや問題も起きる。「来ても楽しくない」と言って退会する人もいる。毎朝、毎夕、スマホのラインで会員に安否のメールを送っているのだが、最近は既読のマークがついても返信が来なくなったという。会員が死去して、入院の時の保証人となった深水さんに入院費用の請求がくることもある。会を揺るがす大事件が去年の秋に起きた。会員が積み立てて1泊2日の温泉旅行をした。幹事となったのは信頼厚い男性だった。その彼がまさかの積立金の持ち逃げをしたのだ。
 番組で強く考えさせられたのは、「やどかりサポート」が単身者の死去時や緊急時に対応するため「つながる安心事業」を企画したときの深水さんの反応だった。事業は有料で事前に連絡先や希望措置をアンケートに書き込み、いざというときNPOが責任をもって実行する。深水さんは、これまで頑張ってきずなを深めいざというときにも備えようとしてきたのに、そのような事業をされると会の活動意欲が削がれてしまうことを懸念する。サポートの責任者は、「ゆくさの会」を否定しているわけではなく、単身者が増えている現状に持続性をもって対応するためにこんな方法も理解してほしいという。
 深水さんは、気になる会員を訪ねて様子を見たり、年賀状をみんなに送ったり細やかに気を配って無私と言っていいほどの献身的な活動をしてきた。おそらく、それに感化されて人が集まり、人の輪が広がっていったのだろう。「団結力」という言葉が深水さんの口から何度も出た。やや違和感のある言葉だが、人とのつながりを強め深めようとする気持ちを、身近な言葉で言い表したのだろうか。脱会者が続いて「自分はまとめる力がないのだろうか」と悩む彼に、ある会員は「それはあんたのせいじゃない。みんな個人個人だから」と言う。そんな彼に、「つながり安心事業」は事務的過ぎて「人がつながる」という核心が抜け落ちているという直感が働いたのか。
 しかし「ゆくさの会」にトラブルが続出するように生身の人間だけでつながることの難しさはつきまとい、いつ会が崩壊してもおかしくない。システムも必要なのだ。両者は補いあってゆくものだ。その補いの形を模索するのも手探りでやっていくしかない。深水さんは事業への反発から会の活動から個人的に離れていたが、また復帰することを決断する。番組の最後にそのことを語ったあと「近くにいるということは、心の近くにいること」とつぶやく。至言だ。心の近くに誰か一人でもいると感じられれば、人は安らげる。その求め難さを感じながらもそれを求めずにはいられない。「ゆくさの会」の活動を見て、自分にもあるこの本能のようなものがうずくのである。

縮小する日本、縮小する世界


 厚生労働省の社会保障・人口問題研究所が、日本の人口が2070年には8700万人となり、そのうち1割が外国人という推計を発表した(朝日新聞4月27日)。2020年の国勢調査に基づくという。出生率は低迷を続けて70年は1.36(20年は1.33)。出生者数は22年に80万人を切ったが、70年では45万人となる。高齢化率は、20年の28.6%から70年は38.7%に上がる。外国人を除くと人口は7800万人である。50年後の数値であるが、人口減小はすでに始まっており(国勢調査によると、2020年の総人口は1億2614万6000人で、2015年の調査時よりも94万9000人減少した)、年の経過とともに指数級数的に減少していくのはほぼ確実だろう。それを緩和してくれるのが、外国人の移住ということになる。
 
 人口の縮減は日本の問題だけではない。原俊彦『サピエンス減少』(岩波新書2023年3月刊)は、2022年の国連の世界の人口推計にもとづいて、世界の人口の現状と将来の予測を詳述する。アジア、ヨーロッパ、北米、南米において出生率は置換水準の2.1を下まわっている。2023年に世界の総人口は80億人を突破し、これからも増加していくが、これはサハラ砂漠以南のアフリカの人口増加分によって占められ、他の地域の自然増加はマイナスに転じている。長寿化や国際的な人口移動によって人口は維持されているが、いずれ日本のような超少子化、超高齢化、人口の自然減(死亡率が出生率を上まわる)現象に直面するとみられる。
 人類が狩猟採集社会であった1万2千年前は、総人口は500万~1000万人と推定される。農耕社会そして産業社会と移る段階で人口は爆発的に増加して現在は80億人となった。アフリカは産業社会化による爆発的な増加の段階にあり、他の地域ではそれが落ち着き、さらに逆転しているということになる。世界人口は2086年に104億3095万人をピークにして減少に向かい、300年後にはピークの100分の1に縮小するという推測もあるらしい。統計的なシミュレーションということで、産業社会の行く末がなぜこのようになるのかという納得できる説明は本書にはない。
 日本の出生率の減少原因について著者が強調するのは、女性の初婚年齢と初産年齢の高齢化による出生児数の減少である。1970年代前半の初婚年齢は24歳であったが、2020年には29.4歳になり、それとともに初産年齢も上昇し、女性が生涯で出産する子どもも少なくなった。晩婚化が進んだのは、個人の人生の選択に対する自由度が増したからだという。また日本では結婚と出生はセットであり、未婚者の増加とともに生まれる子どもも減っていく。
 人口縮減が社会に与える影響についても章が与えられている。生産人口の減少は社会資本・生産への悪影響を及ぼす。地方は消滅し、生態系や環境も崩壊する。これへの対処として、累進課税の強化やベーシックインカムの導入などいろいろな策が提示されている。著者は出生率を上げることで人口減を止めるのは難しいと考える。希望を託されるのは、国際人口移動すなわち移民である。ロンドンは住民の半数以上がインド系であり、ドイツは人口の25%以上が移民で構成される。日本も縄文時代、弥生時代にさかのぼれば他所から移動してきた人々が住み着いた。著者は書いていないが古墳時代・飛鳥時代に多量の渡来人を受け入れている。
 厚生省の推計においても2070年の日本人口の1割は外国人ということだった。実習生や特定技能者の受け入れ(外国人労働者は現在182万人)が、その地ならしの役割を果たすだろうが、日本はまだ移民の受け入れに後ろ向きである。体の良い労働力としてだけ利用したいのだろうが、これからそのやり方がうまくいく保証はない。これからは移民産出国の人口も減り、移民参入を望む国の競争も激しくなる。厚生省の推計は甘いかもしれない。

佐伯啓思氏の「リベラル近代主義」批判への批判

  
 ウクライナ戦争は2年目を迎えてその帰結がまだ見えない。第三国による和平交渉の仲介の兆しさえない。ロシアの侵攻が始まった時から、私はこれを不当な侵略と見てロシアが戦争をやめウクライナ領外に撤退することが正しい解決だと思ってきた。そのためウクライナが武力をもってロシアに抵抗することはやむを得ない。九条の理想に共鳴している私であるが、不当な暴力を行使し「話」に応じない相手には、力をもって対抗するしかないと考える。
 「戦争絶対反対」「中立の立場に立って和平を働きかけよ」という意見はそれだけを取り出せば正論である。だが、現在ウクライナで起きている現実の前では、あまりにキレイごと過ぎる。ウクライナ民衆の苦しみを思うと無責任でさえある。「ロシアを悪、ウクライナを善と決めつけるのではなく」というフレーズもときどき聞くが、こういうことを言う人からその後の「決めつけない」話を聞いたためしがない。
 最初から親ロシアの立場にあってロシア寄りの発言をする人たちもいるが、これは論外である。よくあるのは、反米・反NATOのイデオロギーからウクライナの抵抗を代理戦争と批判的に見る人たちだ。さすがにロシアの振る舞いは支持できないので、「どっちもどっち論」を彼らは唱えるようだ。この論は、本音でロシアの勝利を願っている。

 保守派の論客である佐伯啓思氏が「西欧の価値観『普遍的』か」というエッセイを、朝日新聞(3月31日)に書かれていた。ウクライナ戦争について氏らしく文明論という大きな視点から述べられている。氏はつねづね戦後民主主義や平和主義、グローバリズムを舌鋒鋭く批判されていて教えられることも多いのだが、このエッセイには疑問を持った。。
 「この事態(ウクライナ戦争)の背景には、冷戦後の米国中心のグローバル文明の失敗がある。」という結論が最初に来て、その理由が論じられていく。「個人の自由や市場競争、民主的な政治、人権、法の支配、国民国家体制、科学技術と経済成長による幸福追求、それを実現する進歩的な歴史観。これらの価値を総称して『リベラルな近代主義』」を普遍性な価値として世界化することが歴史の進歩と見られてきた。しかし人間には二面性があって、「他者を支配したいという尊大な欲望をもち、逆に支配されることに強烈な屈辱感を感じる。そこまで言わずとも、他者より優れているというつまらない虚栄心に動かされ、少しでも馬鹿にされれば生涯その恨みを忘れない。一方で自由を希求すると同時に、他方で圧倒的に強いものや絶対的なものへ積極的に服従したり臣従したりもする。また人は理性的であるとともに、理性を超えた神秘的なものへも強く惹かれる。」と氏は述べる。
 「リベラルな近代主義」の母胎にはユダヤ・キリスト教がある。古代ユダヤ人が他民族に支配されることで受けた苦難・屈従は、絶対的な神によって救済されるという。ヘーゲルはこれを、歴史は強者(主人)による弱者(奴隷)の支配であり、弱者はその誇りをかけて強者に復讐しやがてすべての人が強者であり弱者である近代の市民社会に落ち着くと説いた。絶対神は人間理性に置き換えられ、理性による救済の実現という目的論的で進歩的な歴史観が生まれた。
 西欧の近代にいたる歴史は次のように解読される。「それは、支配をめぐる、もしくは他者に対する優越や尊厳をめぐる激しい闘争の着地点であり、歴史の終局である。だから、西欧における自由とは、なによりも奴隷ではなく主人であること、つまり自らの尊厳を自分で守ることなのである。」「リベラルな近代主義」の理想は、西欧の「支配をめぐる激しい闘争」の歴史から誕生したものであり、普遍性を持つのではないと主張される。。
 ロシアもその起源にはモンゴル・タタールの支配に苦しみ、隣国との軋轢・抗争に悩まされた。その精神的支柱になったのは、キリスト教からわかれて成立したロシア正教であった。ロシアの歴史と大地に根を下ろし民族宗教の色彩を濃くしたロシア正教は、皇帝を救世主のように見なす。それはロシア人の心の深層に潜み、「ロシアの救済を約束する正教会の神意は、世俗化された皇帝型の権力によるロシアの強国化となって現出する」。ウクライナ戦争も、「冷戦後グローバル文明において栄光ある地位を得られなかった」ことに不満を持つロシアの強国化への現出ということだろうか。
 ここから「今日の、ウクライナを挟んだ、ロシアと西側諸国の対立は、「その深層にあっては、旧約聖書の絶対的一神教に端を発する二つの世界観の対立ということも不可能ではない。」と続く。複数の世界観を「一つの方向に向ける」ものではなく「多様なものの結合」が、グローバリズムの時代の「普遍性」であると結ばれる。

 紙幅の関係もあってか、ロシアの世界観の叙述が短くて十分な理解にはいたらないが、氏の1年前のウクライナ侵攻がはじまった時のエッセイでは「ユーラシア主義」と書かれていた。西欧との葛藤から生まれたロシアのナショナリズムである。その核心にあるのがロシア正教ということだろうか。ふたつの世界観は根において通じながら独自の展開を遂げ、対立する。そして支配をめぐる欲望と尊厳がからまって衝突しているのがウクライナ戦争ということになる。戦争にはもっと様々な要因が働いているだろうが、そんなことは承知済みであえて大局高所から見た分析なのだろう。全体の文脈の重点は、「リベラルな近代主義」の普遍性を詐称する傲慢さへの批判である。戦争の原因も「冷戦後の米国中心のグローバル文明の失敗がある。」と記されるように、ロシアに同情的でさえある。1年前のエッセイでは、「プーチンのウクライナ侵略は決して許容できるものではなく、国際法にも人道にも反する暴挙である。」と書かれていたが、今回はその種の言葉もない。ロシアの侵略行為に対する氏の見解が変わったとは思えないが、氏のロシア批判の希薄さはちょっと不思議である。「国際法にも人道にも反する暴挙」であるという判断の基準は、「人権、法の支配、国民国家体制」というリベラルな近代主義がもたらした価値観にあるはずだ。それには、氏が明かしているように西欧の支配と隷属をめぐる血みどろの歴史があり、そこから抜け出そうとする知恵がつまっている。リベラルな近代主義にはさまざまな問題がまといついていることは誰しも認めるしかないが、世界が共有すべき標準の価値が他にあるだろうか。

萩原朔太郎晩年の詩集『氷島』の背景――萩原葉子『蕁麻の家』より


 萩原朔太郎の長女、萩原葉子が育った萩原家をモデルにした小説『蕁麻の家』を読んだ。母は若い男と出奔して、残された父は二人の娘を連れて実家に帰る。実家には家長の祖母と叔母たちがいる。祖母は出奔した母を淫乱となじり、孫に冷たくあたる。祖母の意地悪さは異常なほどで、吝嗇で俗物の塊として描かれる。叔母や知的障害のある妹、学校の先生や友人までも主人公のふたばには敵対的な存在である。物語として人物はキャラクター化されているが、ここにある出来事は事実なのだろう。朔太郎をモデルにした父は生活力に欠け世間に常に怯え、頼りにできない。しかし父の愛がラストに用意されていて、この小説の救いとなる
 詩人の大岡信が「日本近代詩を創った天才詩人がこんな家庭環境にあったことを知って暗澹とする」というようなことを文芸時評でたしか書いていた。私も朔太郎のファンであるから、伝記的な事実に興味が行く。晩年の詩集『氷島』が刊行されたのは、この小説の時期に重なる。『氷島』の自序で「すべての芸術的意識と芸術的野心を廃棄し、単に『心のままに』、自然の感動に任せて書いたのである。……著者の実生活の記録であり、切実に書かれた心の日記」と弁解するように記されていた。たしかに述懐がストレートに出た作品群で、言葉の限りを尽くし異次元の詩的世界を創りだす朔太郎の従来の作品とは異なる。三好達治はこれを「索莫」と批評した。晩年の朔太郎は詩心が枯渇していたかもしれないが、芸術性を無視しても叫ばずにいられなかった事情があったのだろう。『氷島』のなかで強く心に残る一篇がある。「帰郷」と題して、「昭和四年の冬、妻と離別し、二児を抱えて故郷に帰る」と前書きがある。

わが故郷に帰れる日/汽車は烈風の中を突き行けり。/ひとり車窓に目醒むれば/汽笛は闇に吠え叫び/火焔(ほのほ)は平野を明るくせり。/まだ上州の山は見えずや。/夜汽車の仄暗(ほのぐら)き車燈の影に/母なき子供等は眠り泣き/ひそかに皆わが憂愁を探れるなり。/嗚呼また都を逃れ来て/何所(いづこ)の家郷に行かむとするぞ。/過去は寂寥の谷に連なり/未來は絶望の岸に向へり。/砂礫のごとき人生かな!/われ既に勇気おとろへ/暗憺として長(とこし)なへに生きるに倦みたり。/いかんぞ故郷に独り帰り/さびしくまた利根川の岸に立たんや。/汽車は曠野を走り行き/自然の荒寥たる意志の彼岸に/人の憤怒(いきどほり)を烈しくせり。

 前書き通りに身の上におきた事実を詩にして(もっとも実際に帰郷したのは7月らしい)、漢文調の悲憤慷慨というパターンもにおうが、心に迫るものがある。この小説を読んだことで、『氷島』のタイトルともども作品群が生まれた具体的な背景が想像されるのである。

「文学そのものの姿」ーー北条民雄『いのちの初夜』を読む


  「いのちの初夜」は、「最初の一夜」という題名が作者によってつけられていたそうだが、川端康成が改題して『文学界』に掲載された。「いのちの初夜」は北条民雄の代表作となったばかりでなく、この作家の文学性を象徴する題名となったように思う。それは「いのち」そのものと向き合うという文学の誕生であった。
 当時、癩病(ハンセン病)を根治させる治療法はなく、患者は自らの身体が徐々に腐蝕していくことになすすべもなく死までの長い猶予の期間を待つしかなかった。感染を恐れられ、遺伝病という偏見もあった。罹患すれば、地域から放逐され家族からの離反も余儀なくされる。生命としての死の前に社会的な死が宣告されたのである。
 表題作は、主人公・尾田が隔離病院に入院する当日とその一夜の体験を描いた作品である。自らの病を知った時から自殺を思わない日は一日としてなかったという彼は、ついに行き着く場所に行き着く。病院へ向かう道で、一般人とすれ違うとき彼はうつむき見ないようにしながら、他人に映っている自分を意識せざるをえない。病院の素っ気ない受付や医師との簡単な面談、風呂に入らされ脱衣籠もない汚れた茣蓙の上で服を脱ぐこと、縦縞のある患者の服に着替えさせられること、行為の一つ一つに癩病患者としての自覚を屈辱とともに植え付けられていく。
 初日に待機させられるのは重病者の病室であった。「崩れかかった人ばかりで人間というよりは呼吸のある泥人形」の群れの中で自らの成り果てていく姿をそこに見る。尾田は病室から衝動的に飛び出して首をつろうとする。枝から垂らした帯の輪っかに首を入れたとき足がすべり、恐怖で青ざめる。どうしても死ねない自分、しかし病室には戻りたくない自分、両者に引き裂かれてどこにも行き場のない孤独と不安につつまれる。これを一部始終見ていた患者がいた。新人の彼を世話する付き添いの佐枝木であった。入院歴5年の彼は片目が義眼でもう片目も見えにくくなっていた。重病者を淡々と世話しながら、尾田のこころを見通したように癩患者の哲学を語る。
 病室に戻った尾田は周りの患者たちに「ぬるぬると全身にまつわりついてくる生命、逃れようとしても逃げられないとりもちのようなねばり強い生命」を感じながら、佐枝木の語りに耳をかたむける。「(癩患者は)人間ではない。生命そのもの……。癩になりきればふたたび人間として生き得る……」。尾田も小説を書くという佐枝木も作者の分身である。尾田は佐枝木と夜明けの林を歩きながら「生きよう」と強く思うのである。
 角川文庫版の『いのちの初夜』には、他に7編収められている。どれもが異様に密度の濃い作品だ。なにか息をつめて読むような読書状態になる。作者はドストエフスキーに深く傾倒したというらしいが、心理描写や人物描写にその影響を感じる。彼が『文学界』に「いのちの初夜」を発表したのが昭和11年の2月、腸結核で亡くなったのが昭和12年12月であった。享年23。傑作の作品群はわずか2年の間に集中する。それはいのちを削る行為であったのだろう。
 彼の作品の発表はすべて川端康成をとおして行われた。亡くなった当日に川端は弔問している。単行本『いのちの初夜』や死後に全集を出版したのも川端の尽力による。小林秀雄は北条民雄の小説を「作品というよりも文学そのものの姿を見た」と語っている。

いのちの初夜

はじめての阿闍梨餅


 阿闍梨餅という和菓子が、京都のお土産として人気があるらしい。たまたま直木賞作家の澤田瞳子氏が、「編集者へのお土産として京都駅の伊勢丹で阿闍梨餅を買った」とツィートしているのを見た。さらに伊勢丹では餅を電話で予約できるという情報も加えてあった。その翌日だったか、「伊勢丹で阿闍梨餅を買って近鉄奈良線に乗って帰る」という他の人のツィートが目に入った。ほとんど家にこもる毎日で世間との接触がとぼしく、阿闍梨餅とは初めて聞く名前であった。あの澤田氏がそこまで持ち上げるお菓子である。甘党として俄然食指が動いた。
 さっそく検索すると、「阿闍梨餅本舗 京菓子司 満月」に一発でヒットする。和菓子老舗らしいサイトのつくりで、これまた京都らしい風格のある店舗の写真がトップにあった。<創業、安政三年(1856年、江戸末期)、「阿闍梨餅」をはじめとした、こだわりと熟練の技術の伝承が息づいた和菓子をぜひ、ご堪能くださいませ。>とある。その横に<弊社ではAmazonや楽天市場等のフリマサイト・アプリでの販売は一切行っておりません。上記WEBサイトでは価格が高額設定されております上に、弊社では商品及び発想に関する責任を負いかねますのでご了承願います。>と断ってあった。オンラインショップはなく、電話での注文・発送は受けつけているようだ。
 名指されたAmazon、あるわ、あるわ、一番レビュー数の多かった出品者のサイトで、とりあえず10個入りを選ぶ。送料込み、税込みで2349円だ。満月の店舗では1523円(税込み)。これに送料と手数料を加えての値段なのだろう。
 注文して2日後に届く。普通の段ボール箱からとり出すと、「満月」の紙袋に入った箱があった。伊勢丹の包装紙に包まれている。堅牢な紙箱の中に一個一個袋に入った阿闍梨餅。伊勢丹で購入して即座に送ってくれたのだ。こんな商売もあるのだ。まことに単純明快、利は薄いだろうが、一日にどれほどの注文を捌いているのだろう。そちらにも興味が行く。
 賞味期限は製造日から5日。緑茶を入れてさっそく賞味した。薄い茶色で円い形はよくある饅頭であるが、中央にもう一段小さく平坦なふくらみがある。触れば柔らかい。口に入れると、抵抗感がありもちもちとした厚めの皮、甘さ押さえながらやっぱり甘みの残る漉し餡。皮の弾力ある風味が一番の印象だった。ばら売りなら一個141円(税込み)だという。この値段ならお得感があるだろう。
 「阿闍梨」とは、<高僧を意味する梵語を語源とし、日本では天台・真言の僧位を表しております。その形は、比叡山で千日回峰修業を行う阿闍梨様がかぶる網代笠を象ったもので、厳しい修業中に餅を食べて飢えをしのいだことにちなんで考案されました。>「満月」のホームページの解説である。紙袋に刷られ、ホームページにも掲げられている比叡山修業僧、阿闍梨の古文書から取られたらしい絵が面白い。阿闍梨様を従者が長い棒の先につけた腰当のようなもので押しているのである。それが突いているようにも見える。阿闍梨を無理やり歩かせているように見えておかしい。

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阿闍梨図絵


六十年ぶりの鰹節


 今年になって朝食で新しい習慣が加わった。鰹節を削り器で削り、大根おろしに振りかけて食べるのである。大根は自家菜園のもので、この頃の大根というのは、昔の辛さを知っている者にとっては甘く感じられるほどだ。醤油を垂らして、削りたての鰹節をからませる。両者はお互いを引き立てて鰹の香りとともに絶妙な味わいである。粥ご飯と非常に合う。
 削り器は、新潟県の(有)山谷製作所「台屋」の製品で、amazonで購入した。検索するといろいろなメーカーの製品があったが、レビューの数と評価から選んだ。他の削り器は引き出しのあるものが多かったが、これにはなかった。写真で見るデザインはコンパクトで美しい。刃の出も試し削りして調整済みとのことで、また有料ではあるが、メンテナンスも謳っていた。価格は13200円。
 鰹節もamazonで一番レビューの多かった「にんべん」の本枯鰹節の背節220g(2298円)と腹節190g(1764円)を購入した。「にんべん」は1699年(元禄十二年)創業、東京日本橋の鰹節・だし専門店ということだ。 
 鰹節を削るのは子供の時以来だから、じつに60年ぶりである。引き出し付きの削り器で悪戦苦闘しながら削ったことを思い出す。さすがに現代は懇切な取説がついている。刃先を手前に向けて鰹節を押して削るのだという。鉋のように手前に引いて削るとばかり思っていた。これはちょっとしたカルチャーショックである。説明を読むのももどかしくさっそく削る。引っかかってスムーズに動かない。無理して何度も前後に動かす。中を見ると粉状の削りカスである。見かねて妻が交代する。数回押して音が変わる。シュ、シュ、シュという軽快な擦り音だ。いかにも削れているという感じだ。果たして極薄の紙のような鰹節が生まれていた。代わってもらいその後を続けると、軽快な音ともに削れた。
 それから毎朝、鰹節を削るのが私の日課となった。うまく削れているかどうかは、手ごたえと音でわかる。失敗することはほとんどないので、朝一番のこの仕事でよい気分になる。2本目の鰹節を削り終えるころ、取説をふたたび読んだ。鰹節には頭と尾があり、「頭の方から削っていきますが、頭側の斜めの部分を台座にあてがうと、尾側が斜め上を向いた状態になって力をいれやすい」とある。これはまったく意識していなかった。この部分も読んだけれど、何のことかわからなくて頭に入っていなかったのだ。というわけで3本目にして、はじめて「正しい」削り方を実践できるようになった。たしかに前よりきれいに削れるようになった。
 台屋の削り器はそれにしても素晴らしい。左手で削り器を固定し、右手の鰹を鉋台に滑らせる。まったく揺らぐことなく安定している。一本のブナの木をくりぬいた本体はぐらつくことがない。引き出しという余分なものもない。鉋台は重量のある白樫で、炭素鋼の刃がよく切れるのは言うまでもない。テーブルの上に置いていても邪魔にならないコンパクトさとインテリアにもなれそうな美しいデザインである。

 鰹節を削ることが絶えたのは何時だったか。中学生の時には、すでにビニールの小袋に入った「花かつお」が出回っていたような気がする。これが常備されるようになり、出汁を取るのに使われたのだろうが、生で食べることも多かった。しかし、香りがほとんどなく、味覚ももうひとつで何時しか食卓から消えていった。
 60年ぶりに復活させたのは、あの香りと味が忘れられなかったからだ。幼き日の思い出は歳月がたつほど甘く美しくなるようだ。しかし、ネットがなければこんなに簡単に復活できなかっただろう。もし店でしか削り器や鰹節が入手できなかったら、どれほど手間がかかっただろう。

20230325_鰹節

明治の〈夢〉を生きた群像ドラマ 猪瀬直樹『唱歌誕生 ふるさとを創った男』(中公文庫)


 私が育った家庭環境は音楽が乏しかった。ピアノを習わしてもらうなんてことは考えられなかった。音楽とのはじめての出会いは、幼稚園の童謡、小学校の文部省唱歌など学校の音楽の授業においてであったと思う。人生で最初に出会った歌が文部省唱歌ということは、私の感性の基底がそれによって育まれているということだろう。寂しく思わないわけではないが、これはどうしようもない。数ある唱歌は題名を聞いただけで懐かしく思い出されるが、中でも「春が来た」「春の小川」「故郷」「朧月夜」「紅葉」は今も口ずさみ、その詩やメロディには琴線がふるえる。文部省唱歌は国が作った歌ということで、作詞者や作曲者は匿名であったが、戦後になって作者の名前が一部判明した。ここに挙げた歌はいずれも作詞が高野辰之、作曲が岡野貞一であるという。彼らはいわゆる有名人ではないが、多くの日本人の音楽的な情操を養った者たちだ。その人物に興味を持つのは当然である。
 本書はタイトル通り、この二人が主人公でその誕生から死までの足跡が幅広い資料や取材によってたどられる。唱歌誕生の背景や彼らが関わったいきさつや役割が明らかになる。しかし著者の関心はそれだけではなく、明治の初期に生まれ日本国が形成されていくことと並行して人生を歩んだ者たちのドラマ、そして個々のドラマを通して明治から昭和にかけた時代を描くことにむしろ主眼があるように思える。
 島崎藤村や浄土真宗西本願寺派第22代門主大谷光瑞も主役級で登場し、彼らに関わる多くの人たちにも出会うことになる。その登場の仕方が小説的と言えるほど巧みである。北信濃の西本願寺派寺院、蓮華寺は藤村の小説『破戒』のモデルになったが、生家が近郷の高野はこの寺に下宿したことが縁で寺の娘と結婚している。光瑞の中央アジア探検隊の一員に娘の兄が加わり、娘の姉は他の隊員の妻になる。兄の娘は一人が光瑞の秘書となり、もう一人は辰之の養女になる。藤村、光瑞、辰之、三人の直接の接点はほとんどないが、蓮華寺を起点にして伴走する人たちの視点から三人の人生が照射され、そのミステリアスな展開に興奮する。執筆されたとき、光瑞の秘書になった女性は存命であり、インタビューに答える彼女の記憶が物語にリアリティを与えていることも見逃せない。
 辰之は学者志望であった。しかし師範学校出身で思うような進路を進めず、帝大教授の上田萬年に個人的に師事し、助力を得ながら文部省の教科書編纂や東京芸大の前身、音楽学校の研究職につく。唱歌の作詞をすることになったのは偶然である。
 文部省は尋常小学校の音楽の国定教科書を作成するにあたってそれにふさわしい唱歌を必要とした。招集された音楽学校の先生たちのなかに辰之がいた。各学年20曲、合計120曲が作られ、実際に歌われるようになったのは大正に入ってからである。彼らは口外することを禁じられ、チームになって制作したので、今でも個々の歌の作者を特定するのは難しいという。国策に沿った徳目を涵養する内容の歌も多かった。
 辰之は若いときに新体詩をつくり短歌を詠んだ。著者は、辰之が北信濃出身であることに着目する。四季の変化が顕著であることが、「朧月夜」や「紅葉」のような季節の鮮やかな描写を生んだのではないかと想像する。辰之は『日本歌謡史』を著し博士号を得る。帝大講師になり、文字通り「こころざし」を果たして故郷に錦を飾る。
 作曲した岡野貞一は鳥取県の没落士族の出身である。幼くしてクリスチャンになり、音楽の才能は日曜学校で磨かれたという。音楽学校を首席で卒業し、母校の教職に就くとともに教会のオルガン奏者を生涯つとめた。彼の作った歌に三拍子が多いのは讃美歌に親しんだ影響ではないかというのが著者の推測である。彼はつねにもの静かで目立たなかったという。辰之と貞一のコンビが目立つが、二人がとくにつきあっていたという形跡はない。
 「春の小川」は、辰之が当時住んだ東京近郊の代々木練兵場近くを流れていた小川から着想を得た。養女の証言である。また辰之の随筆に「春が来た」を自作とほのめかす記述がある。しかし他の作品や作曲が岡野貞一であることを知られたのはどこからだろう。情報源は遺族だとどこかで読んだ覚えもあるが、はっきりしない。本書がそのことを詳らかにしていないのはもの足りない。